はじめまして、horinoAです。1970年生まれ、50歳になります。 今は某小売のWebマーケティング部門で社内SEとしてVBAやらPowerShellやらで分析用のPostgresSQLをたたいたりの仕事を週4日、子どものためのプログラミングコミュニティCoderDojoのご縁で知り合った方から紹介された子どもプログラミング教室で軽く講師のお手伝いをさせていただいています。のんびり仕事しながら今は放送大学情報コースで計算機科学を基礎から勉強しているところです。
※2022/8現在追記 結局2022年初頭より技術者派遣でフルタイムに戻っちゃいました。でも週3日在宅でやっぱのんびりVBAやらPowershellで社内データの分析用DB整備(Postgresかかりきりよ・・)したり謎の古Saas、設定したりJSで機能追加(dom久々に直叩きした・・)してます。
発端になった記事や他の方の記事はもちろん読ませていただきました。
実はこれを書くことは正直悩みました。私の年だと何書いてもおばはんの説教にしかならない。ただ今までの「1人の女性がエンジニアになるまで」シリーズを読んだ率直な感想はこうでした。
「SNSで「1人の女性がエンジニアになるまで」シリーズ読んでるけど、最初は女性がIT業界参入しにくい原因わかりやすくて良いと思ったけど、属性が「高等工学教育受けれるエリート層の子女」に偏り気味みで、そもそも女子や地方の子どもはそのチャンスすら低くいのが見えにくいの、めっちゃ気になるんですが」
このような事を思ったので蛇足とは思いつつこの記事を書くことにしました。これから今までの記事書かれたに対して嫌な気持ちになる内容書くかもしれないので、読む自信のない方はここでスルーです。
では上記も踏まえつつ私の今までの話をしていきたいと思います。
<追記> セクハラの被害を訴えておられる記事もあったので、相談先のリンクを張っておきます。基本的には会社の専用窓口や社外弁護士事務所(上場会社にはあるはず)ですが当てにならない場合は公立の女性センターなどもあります。法律だけでなくカウンセラーの紹介などもしてくれる場合もあります。
子供時代
大阪市内で会社のセールスマンの父とパート主婦の母との間にごく平凡な工学とはなんの縁もない家に生まれました。それ以来南大阪に引っ越してからずっと大阪です。父はジャズが好きでデイブ・ブルーベックがよくかかってました。母は本が好きでその影響で本が好きな子どもでしたね。漫画は親に禁止されてたのですが学校の学習まんがはOKだったのでよく図書館で借りて読んでました。楽しかったですよ。今でも図書館は大好きですね。あと昔は月刊シリーズで「学研の科学」というシリーズがあって付録で原始的なカメラを組み立てセットやボウフラ育成セットがついてたのでよくそれで遊んでたのを覚えています。
子供時代に好きだった本。 bookclub.kodansha.co.jp
そんな感じで地元の中学校にあがりました。吹奏楽部でユーホニウムを担当しましたがあまり音楽は向いてなかったのか伸びませんでした。聞く方は洋楽全盛時代でラジオからはベスト・ヒットUSAだのNHKサウンドストリートだのクロスオーバー・イレブンだの聞きながら勉強してましたね。成績は良かったので塾には通わせてもらって一応地元の進学校の高校に入学しました。流石に中高になると漫画読んだりアニメ見たりできたので普通にオタク友達できて漫画読んだりアニメ見たりしてましたよ。いかんせんMachintoshとかの時代なんでインターネットのネの字もなかったです。あれだ、パーソナルコンピューターがやっと世に出だした時代で一台100万!とかだったので一般家庭にはまずなかったです。 高校入学の頃から父が独立して始めた商売が傾いてきて、とてもじゃないけど大学進学は考えられない経済状況でした。それに輪かけて当時は親が娘に面と向かって「女は高学歴すぎると結婚できない。大学は行かないほうがいい」と、本気で!マジで!!いう時代でした。今のお嬢さんからしたら考えられないと思いますが私以外でも言われる女性多数・・・まあ大学進学率男性で34.1%で女子に至っては14.7%ぐらいの時代の話なので。この当時大学行った女性、すごいお嬢様か本物の秀才だよなあ・・
https://www.mukogawa-u.ac.jp/~kyoken/data/13.pdf
もう高校最後の半年は父の商売が傾いて生活へのプレッシャーから体調崩すわやる気は出ないわで不登校気味になっちゃっいましたが、単位は足りてたので卒業はできました。そのまま地元の中堅自動車部品工場に就職します。
自動車部品工場時代
この工場で私は初めてパソコンと出会うことになります。つっても事務所に8ビット!のFM-7とっぽいPCがおいてあってやっと社内でLANが設置され、キーパンチャーの真似事で伝票入力したらテープがぶんぶん回る電算室!!に送られる時代でした。なぜか入社したての私はPC-98の前に座らされて強烈にでかいバインダのLotus1-2-3という表計算ソフトのマニュアルをわたされ最初の2ヶ月MS-DOSと格闘することになりました。今思えば本当に、本当にラッキーです。生活苦で就職した会社で絶対手の届かないPCに触れるなんて!勉強自体は楽しく新しい機械に夢中でした。当時のLotus1-2-3はExcelのようなマクロがあり、そこで人生初のコードを書きました。それを使い不良率や出荷率の集計を自動化したり、帳簿を印刷するプログラムをかいたり、他は自動車製造業必須のQC活動のプレゼン用グラフやパンチャーの真似事などの仕事を約10年ほどしたあと今の夫との結婚を気に退職しました。そのまま普通のおばちゃんとして生きていくつもりでした。
結婚、出産
出産前に「パソコン覚えてくと絶対有利だな」と思って当時発売Windows98時代のExcelを独身時代の貯金で通ったスクールで覚えました。結構たかかった・・やっと自宅でPCも買って、インターネットに繋げて(モデムがピーがーっていうのよ!)色々ネットサーフィン(死語・・)してましたね。子どもが二人生まれてから流石に時間がなかったですがなかなか寝ない赤ちゃんの息子を抱きながら基礎情報のシラバスを載せてくれていたサイトを読んでいた記憶があります。子どもが大きくなって仕事探すとき少しでも優位かなと思ってました。やっぱりこのまま普通のおばちゃんとして生きていくつもりでした。
夫、うつ病
兄息子が5歳、弟息子が3歳のとき夫が仕事にいけなくなります。うつ病と診断されほぼ布団から出れなくなりました。生活のため四の五の言ってられなくなり兄息子は学童、弟息子は保育園に入れまず、電車で20分ほど離れた工場で事務兼検査のバイトを始めます。ただこの職場は本当に親切にしていただいて上司の工場長はじめ製造ラインの先輩方や出入りの外注さんまで本当に良くしていただいて楽しく作業着で検査しながら事務してました。このままずっと普通のバイトおばちゃんとして生きていくつもりがリーマンショックがありまして・・会社存続の危機で非正規からきられます。夫のうつ病はまだまだ続いて次の仕事!となった時子どもが小さい時利用者として世話になった親子支援NPOのスタッフとして拾われました。まあ、生活の状態など相談してたので助けてくれたんですよね。 このNPOは親子ひろば -子育て総合支援センターを市から受託して運営してる事業でNPOって福祉のベンチャーみたいなものなので、現場のスタッフとして子どもの保育手伝ったり事務のIT周りを担ったりなんでもしました。そのNPOで全国規模の勉強会を行うことになって、参加者管理のためのシステムをExcelとAccsessで作ったり、登壇者のパワポのチェックや当日の証明や音響の打ち合わせをしたりなんやかんやで社内SEのようなことはしてました。守秘義務があるので詳しい内容はかけませんが、そこで見たのは地方で家族と学校しかない環境でチャンスの少ない中本当にハードな生活のシングルマザーや家族で孤立して子育てする若い母親の方々でした。
派遣社員時代
いつの間にか兄息子小6、弟息子小4になり、夫のうつ病もだいぶ快方にむかってました。生活は落ち着きましたが貯金はできませんでした。NPOの仕事はやりがいはあったけど給料は安く、このままでは息子たちの学費は稼げないと思いNPOの退職を決意しました。退職するまで夫の病気は一部のスタッフにしか伝えてませんでした。そのまま6ヶ月のハローワークの職業講座で当時出たてのAndroidアプリ講座を受講しJavaはそこで覚えました。講座自体はそこまで難しくなかったので暇な時間は結城浩先生の本を写経してました。
そこからは派遣でとにかく金の為事務だろうがVBAプログラマだろうがキャリアもくそもなく仕事してました。手当り次第、1円でも時給のいい仕事を求めてフルで働きました。合間をぬってせっかく覚えたのでAndroidアプリを一本「きょういくとこ」という地図アプリを公開しました。たまに私をかってくれる上司の方がいてiosも開発したら?との助言を頂いたので人生初の小さなmacをかって当時出たばかりのSwiftで「いまたべるとこ」という作成しました。もうどちらもアカウントはないけどヘルプ用に公開した動画は残ってます。なつかしいなあ。ちょこちょこ勉強会とか参加するようになったのもこの頃です。
弟息子が中学になった頃ちょうどminecraftが流行りだして息子が夢中になったのをきっかけに、ちょっとPCの仲間を作ってあげたいなと思っていたタイミングで、子供のためのプログラミングクラブCoderDojoが大阪でも開かれ始めたので参加してみました。
子どもも機嫌よく参加してたので親として通ってたのが、私のキャリアをみて、メンターの方が私もメンターしてみないかと声をかけてくれました。当時のCoderDojoはDojo自体が少なく参加倍率がすごかったので「あ〜〜メンターだったら毎回子ども参加させても文句言われね〜〜な〜〜」と邪な理由で参加きめました。でもやってるうちに楽しくなってきましたし、初めて同世代の同業の友人もできました。
現在
気がつけば50目前、息子たちの進学費用の目処が付き、その頃になると友人たちから「自分のしたい事始めた方がいいよ」「NPOでも起業でもなんでもできるよ」って声かけてもらえるようになりました。有難いけど、ぶっちゃけ金の為にしか働いた事なくてしたい事とか夢とか全く思いつきませんでした。頑張って考えて思いついたのが「大学で体系的にコンピュータ勉強したいな」でしたので、放送大学情報コースに入学し、暫く勉強しつつ、まあ子ども達にどれだけ役に立ってるかわからないけどCoderDojoでコンピュータ好きな子どもたちの居場所作りを細く長くやっていこうかなって思うようになりました。今度こそ普通のおばちゃんとして、最後の仕事でITの仕事とは一旦縁をきる覚悟を決めました。もう雇われでコードを書くことはないだろう。50だしどこも雇われないだろうと。
のんびり扶養内パートの事務に応募したんですが、なぜか何社か面接でシステム部の管理者が出てきて「開発の経験あるみたいだけど、できるかな?」みたいな話をされました。今のwebマーケティング部も「どっちかというと開発畑のひとだよね?」と今の社内SE業務を振られました。きずけばもう、プログラマでしか雇ってもらえなくなってました。
私は正規の工学教育は一度も受けたことがないままここまで突っ走ってきました。伝統的な工学者の方から見ればとても「エンジニア」とは言えない立場です。オープンソースのプログラムと企業の公式マニュアルあればPCとネットワークがあれば簡単に入門、実践できるので、あとは学識の部分は独学で担保するとある程度まではいけてしまうんですよね、この敷居の低さが大学の学費を払えない低収入家庭出身の若い人にもチャンスがあるとともに質の低下にもつながるので、どういう学習歴を「エンジニア」として定義するかは今後のこの業界の課題かなあと思います。ただちゃんとした専門学校へ通い開発会社にいった私の友人たちもいわゆるIT土方と言われるような仕事をした時期を経ています。今の若いエンジニアの方々から見れば私達老人はあなた方とは違う「エンジニアではないなにか」だと思います。そのような立場だからこそ、安易に「エンジニア」という言葉を使うのは抵抗感があります。多分私は一生「プログラマ」だろうし、それでいい。業界の質を上げるためにもこれを読んだ方々には参入障壁の高い女性の技術者、特にこれから出てくる若い、地方のチャンスが少ない方々の事を少し、ほんの少し考えていただけたらなと思います。
「1人の女性がエンジニアになるまで」を書かれている方々は正直「高等工学教育受けれるエリート層の子女」層の方々が多いと思います。しょうがないとはいえ自分たちの仲間のもっと弱い立場にある女性たちの視線や、今自分たちの持っているエンジニアリングの知識や技術を使ってどうビジネスや社会の問題を少しマシにしていくかという意思のようなものを感じる文章とは会えませんでした。あえて泥臭いキャリアの私が書くことで反発でもいいのでなにか感じていただけたらなと思います。我ながら説教臭いなとは思いますが、一人ぐらい地べたはう記事もあってもいいかな?と。私のようにキャリアもクソもなく働いても子どもぐらいは守れるよ、ITにはそのチャンスあるよなと思っていただければ。